「偏り」について考える

担当:庄司

 

 

今月の考える日記は、庄司が担当いたします。

 

 

日々生活をしていると、自分が「少数派に属するとき」というのがあります。
私にとって、そのひとつが利き手です。

  

私は左利き(箸とペンは右の交差利き)なのですが、

世界的に見ると、利き手の多数派は右利きです。
世のなかのものの多くは右手で使いやすいかたちでつくられていて、
私はあらゆるシーンで、それらのものを左手で使っています。

 

使いづらさを感じたり、自分がターゲットではないと感じる寂しさも

しばしばありますが、そういう不便さにはある種慣れているので、

日頃はよっぽどのことでなければ気にしません。

 

それでも、ときどきしみじみとビックリすることがあります。
先日、三つ折財布がほしいなと思いお店に見に行ったのですが、
そのお店の三つ折財布がどれもどうにも手にしっくりこず、
それはなぜだろう? と考えたとき、利き手のことに思い至りました。

 

「左手用の三つ折財布」というコンセプトの商品もありますが、
やっぱり好きなブランドの気に入ったデザインのお財布を使いたい。
でも、その使用感はかなりストレスで、とても使えそうにない。
結局、三つ折財布を使うことはひとまず断念しましたが、
こういったところにも支障がでるんだな、と久々に驚いた体験でした。

 

 

もし、右利きの自分がいて何か製品をつくろうとしたとき、
「左手でも使いやすいようにする」という意識をしない限り、
ほとんど無意識に、右手で使いやすいかたちにしてしまうのだと思います。


より多くの人が使うことを想定した「道具」や、

区別なくさまざまな人の目に触れる広告、サービス、言葉を考えるうえで、

つくり手が自分自身の感覚や価値観、置かれた環境を「当たり前」として
考えてしまうのは怖いことですが、「当たり前」という意識さえ無意識のまま

「前提」にしてしまうことが、もっと怖いことだなと感じます。

それは、利き手のようなわかりやすい違いにとどまらず、
人の数だけある個性や価値観、生活環境、ニーズを前にしてもいえます。

 

自分以外の人の感覚や視点をそのまま得ることはできないので、
その偏りを埋めることも、偏りに気づくことも、容易いことではありません。

偏った視点や尖った視点が、いいかたちや喜ばれる価値を生みだす場面もあります。

ただ少なくとも、使う人のことを考えたものや言葉を考えるうえでは、

できるだけフラットな視点で、本質と向き合えたならいいなと思います。

 

 

 

 

ワンポイントのデザインのマグカップを左手で持つと絵柄面が見えず
少し寂しいことも、最近気がついたことです。

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 
 
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